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gunmarekihaku.JPG
利根川を挟んでバッキリ2つに分かれた関東…
これだけで超興奮しちゃいますよね!!!

群馬県立歴史博物館行ってきました~
初めて知ったことも多く勉強になりました。詳細は後日アップしますね。
ただこれだけは言いたい…
顕定が普通に可愛かった
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 kanto6.jpg

定尊「私のことより、こうして足繁く雪下(鶴岡八幡宮)に通う上様のことが
    私はずっと心配におざります。
    結城以来の旧臣たちだけでなく、
    管領様や長尾殿たちとも仲良くやっているのでおざりましょうや」
成氏「…………(´;ω;`)ブワッ」
定尊(図星!?)

信濃では成氏は長らく一人っ子状態だったので、
鎌倉では弟が近くに住んでるのが嬉しくて
用もないのに顔を出してしまう成氏さんとかだったらかわいくないですか(真顔)



成氏の兄弟って思ったよりたくさんいるのですね…
鶴岡八幡宮若宮別当という立場でありながら成氏のそばを
離れなかった弟(定尊)がいたことになんだかジーンとしてしまいました。

ところで定尊の前の雪下殿である弘尊も持氏の遺児だという説を見たのですが
本当なんでしょうか…
それが本当なら弘尊は弟である成氏や定尊と雪下殿の地位をめぐる対立の上で
上杉方に与したことになるのですが、
成氏と一緒に古河についてったのが弘尊とする記述もあるので、
もしかして定尊と弘尊が混同されてるのかもしれない。むむむ。。。

しかし鶴岡八幡宮がにわかにアツい。去年も行ったけどまた行きたいです!!


拍手ありがとうございました!!
お言葉に甘えてコメント遅くなってしまいましたが、
これからも東国の戦国時代をいっぱい描いていけるよう精進します!


kanto5.jpg
顕定と成氏


群馬の歴博の特別展の概要を見ただけでたぎってしまいました
なんという管理人得!!
とりあえず今月中に一度行かなくてはー

顕定と成氏、ちゃんと色塗ったのが何気に初めてな気がします。

今日は結城氏あたりを調べてキャーとなってました。結城氏も面白いのう。
成氏様とコロコロキャッキャしてる結城成朝&嫉妬に燃える梁田持助ください(無茶ぶり)


kanto4.jpg

長尾景春と足利成氏



~景春と成氏のなれそめ~

関東管領山内上杉氏の執事である白井長尾氏は、
鎌倉公方と上杉氏の戦いの中で、上杉方の実質総大将として活躍してきました。

しかし越後上杉氏から若くして管領に就いた上杉顕定は、
山内家の執事として、白井長尾氏直系の景春ではなく
総社長尾氏の忠景を任命。

このことにブチ切れた景春は鉢形城に立てこもり、
あろうことか上杉方の不倶戴天の敵・公方成氏と手を結んでしまうのでした……



永享の乱に比べて、長尾景春の乱あたりはだいぶ戦国の気風が進んでいる気がします。
しかし成氏さん相変わらずラスボスすぎる


nsnbu45.jpg
左から 東政勝・南長義・北信愛
三人揃って地味系三戸系三人衆☆

信直政権下では、信直の側近として活躍した東南北家ですが、
どうも信直が家督を継ぐ前は様子が違ったようです。
派手な家臣の多い南部家ですが、今日は地味めの三人のことでも
語ろうかと思います(*´ω`*)


まず、最も身分の高かったのは南長義で
(諸説ありますが)三戸南部氏22代政康の三男といわれています。
晴政や信直から見るとおじさんにあたるわけです。

彼は晴政と信直の内訌が起こったとき、真っ先に信直支持の姿勢を明らかにしました。


次に当サイトではすっかりお馴染みの北信愛。
彼はおそらく三人の中で最も身分の低い人物でした。
北家はもともと南・東家と張り合う勢力を持っていたそうですが、
信愛の時代にはすっかりおちぶれ、南家の与力扱いされていたともいいます。

じっさい北信愛は南長義の娘を正室に迎えており、
長義死後も北家で存在感を示していたようです。

そんな信愛が、同じくいったん後継者レースに敗北した信直とともに
出世街道を駆け上ってゆくのですから、人生わからないものですね…



最後に東政勝ですが、彼はなんと晴政生前は晴政の忠実な家臣として
南長義や北信愛の居城を何度も攻撃しています。
それ以前には、八戸の庶流である櫛引清長と呼応して
八戸根城を攻め落としています。

その頃、すでに八戸家当主に就任してい政栄は
実の父である新田行政の葬儀のため城を留守にしていました。

不意をつかれて激怒したのは政栄の祖父・新田盛政。
晴政の援助を受けながら東・櫛引勢を撃退し、
さらに遺言で櫛引氏の領土を奪うよう政栄に指示したといいます。
政栄のじーちゃんぱねェ

そんな東氏と一心同体だった櫛引清長は、九戸政実を支持していました。
ここに 晴政-九戸-東 VS 信直-八戸-南(北) の構図が完成します。

しかし晴政の死後、なぜか東政勝は九戸政実ではなく
天敵の八戸政栄が保護していた田子信直の側近として再び表舞台に登場します。
東氏の転向の理由、ひじょうに興味がありますね…!



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