飛び込んできた田子信直の顔を見た途端に、常陸は事態のただならぬことを悟った。普段仏像のように悟り切った顔をしていると評判の信直が、髪を振り乱し目を血走らせ、鬼に追われてでもいるかのようにもの凄い勢いでこちらに走ってきたからである。
「常陸!櫓はどさ!」
信直は走りながら絶叫した。常陸は突然の狼藉を改めるのも忘れ、呆然と立ち尽くした。
信直は激しく舌打ちした。後ろから追いかけてきた北信愛が叫んだ。
「屋敷の奥、門ば抜けたどこでなす!」
「使えね男だ!」すれ違いざま信直が常陸に向かって悪態をついた。その背を十数人の家臣が追う。
我にかえった常陸が慌てて櫓に向かうと、鉄砲を背負った信直が梯子を昇っていた。常陸を見て動転した信直の家臣が抜刀する。
「来るでね!」
「我ぁこの館のあるじだ!」
常陸は若い侍たちを怒鳴りつけ、自らも梯子に取りついた。
ようやく最上階に着くと、信直とたった一人の供が座り込んで西をにらんでいた。二人の顔は青ざめ、汗で頬に髪がはりついている。
「信直どの、一体どげなこどが」
肩で息をしていた信直が、のろのろと答えた。
「…御屋形が、我ば襲って来だ。毘沙門堂さ参拝さ行っだとごろ、丸腰の我んどば殺そうど馬で追い掛けで来だ…」
「うそだ」
常陸は絶句した。晴政が人里離れた山中で婿養子に凶刃を向けるなど、あってはならないことだ。三戸の後継者争いが激化しているという噂は耳にしていたが、当事者同士が命の奪り合いをするところまで発展していたとは知らなかった。三戸の殿中の騒乱はすなわち南部全体の衰退を意味した。
「来だ!」
従者が低い声で鋭く叫んだ。
信直の後ろから、常陸も森の途切れる場所を見ると、夥しい数の騎馬武者がその合間を縫い、そのたびにきらっきらっと光った。あれは、槍だ。騎馬隊はあからさまな殺意を剥き出しにしていた。そのまま常陸入道の館を正面から取り囲む。統制がとれた動きで、迷いはみられない。
(なんということだ。これは戦争だ)
常陸の足元から震えが上ってきた。
敵は騎馬兵ばかりおよそ5・60騎。対してこちらは館の厩につながれた30馬ほどに加え、他に足軽隊は30いるかどうか。門という門を閉ざせば籠城側のこちらが勝てない戦ではない。
しかしそれより、もっと大事なのは、敵が三戸の棟梁だということである。昨日まで晴政の忠実な臣として仕えてきた常陸入道は、信直のせいであっという間に逆賊になってしまった。
「馬鹿なこど考えるではねえぞ」
信直は燃えるような怒気を孕んだ瞳ではっしと常陸をにらんだ。
「御屋形の御気性ば考えろ。我の首とっで許すど思うのが。もはや我どいがは一心同体、死にたぐねえなら我ば援けろ」
盗人猛々しいとはこのことである。絶体絶命なのは信直のはずが、なぜか常陸の方が気押されている。
常陸は仕方なく信直への忠誠を誓った。信直の言う通り、今は信直を勝たせるしか道はないように思われた。
「信直、常陸入道さ告ぐ!」
館の前に、美麗に着飾った一人の騎馬が躍り出た。白金の鎧に月毛の馬、翻る藍染の互い鶴の旗。信直の早とちりであってほしいという常陸の期待はみごとに打ち砕かれた。南部家総領・三戸の晴政に間違いなかった。
「信直さ詮議すてえ儀あり。大人すぐ投降しぇよ。聞ぎ入れね場合は火ぃかげるべ」
「何が詮議だ、ふざけやがっで」
信直は口汚く晴政を罵倒した。常陸はまるで別人を目前にするような気がしていた。
罵りながら、信直の手は素早く動き鉄砲を構えた。真っすぐ晴政を狙っている。仰天したのは常陸である。
「撃つでね!」
「殺す」
信直は唇まで青ざめている。「殺す!でねばこっつがやられるべ。親父殿さえ殺しぇば全で終わるんだ。殺す!」
明らかに信直は冷静さを欠いていた。常陸は危険も顧みず鉄砲に飛び付いた。そのとき銃が暴発し、軌道が逸れた弾は晴政の馬に当たった。晴政ご自慢の月鹿毛は前脚を上げて絶叫し、鎧を着込んだ晴政は地面にしたたかに叩き落とされた。
「なにする!」
信直が怒り狂う。
「御屋形撃っだらいげね、謀反になるでやんす」
常陸も必死である。今ならまだ正当防衛で済む。和睦も不可能ではない。しかし晴政を撃ってしまえば、信直と常陸は棟梁に牙をむいた反逆者となってしまう。
「今更何ばへっとらげ」
信直の額に青筋が浮かんだ。今になって正当防衛も謀反もない。晴政が死ぬか、自分が死ぬかのどちらかだ――少なくとも信直はそう信じていた。
落馬した晴政に徒歩武者が駆け寄る。背の旗指物は、あれは九戸党の家紋である。
それを見た信直は、一瞬の隙をついて常陸の横っ面を思い切り殴り飛ばした。大人しいと思っていた信直の存外重い拳に、常陸はあっけなく吹っ飛ばされ、信直の従者にぶつかった。信直は再び鉄砲を構え、今度こそ狙い通りに発砲した。晴政を助けようとした武者が膝をつく。腿を撃たれたらしい。
「見だが!実親」
信直は声を弾ませる。それを聞いて常陸は唖然とした。
信直の襲撃部隊の中に九戸実親がいた?南部氏の中でも三戸、八戸に次ぐ実力者の九戸党が晴政側なのか?
だとしたら信直は南部氏のほとんどを敵に回していることになる。
じわじわと我が身の危うさが露見し、常陸は気が遠くなった。
「三戸さお帰りあれ!田子九郎殺すてえなら正規の軍隊連れて来。正々堂々弓鉄砲馳走すべえ!」
いつの間にか離れた塀の上によじ登っていた北信愛が、晴政たちに向かって叫んでいた。晴政側から怒号が飛ぶ。
「こったらこどすてただで済むど思うでねえぞ!」
兵たちに引きずられ、撤退しつつ晴政が喚いた。「ええべ、三戸の総力ばもっでいがんど全員撫で切りだべ!逃げでも無駄だ。この南部の天地さいがんどの味方はどさも居ねえ」
信直が再び発砲し、弾が晴政の足元の土を跳ねた。もはや言葉にもならない悪態をつく晴政を馬に乗せ、騎馬隊は素早く撤退した。
嵐のように騎馬隊が姿を消すと、屋形側から歓声が上がった。なんとか籠城に成功したのである。
櫓を降りた信直と常陸に信愛が駆け寄ってきた。
「信直さま…、お怪我は…」
「平気だ」
信直がちょっと左手を上げてみせた。彼の左腕が血の滲んだ端切れで巻かれていたことに常陸は初めて気付いた。
信愛はほっと眉根を開いた。
「常陸どのさ礼ばへらねぐでは。馬コ撃てど忠告すてけだのは常陸どのだ。でなければ、御屋形殺すてすまうとごだっだ」
「常陸どのが」
信愛は目を細め、無表情でじっと常陸を見た。(真意は何なのだ?)と問い詰めているようにも、(余計なまねをしてくれたな)とにらまれているようにも思えて、常陸は落ち着かなかった。だいたい常陸は馬を撃てと忠告した覚えもないし、信直にしても少なくともあの瞬間は晴政を殺すつもりで撃っていた。
「…お見事な腕前でやんすた、信直さま」
信愛が常陸からさりげなく視線を外した。常陸はこの瞬間信愛になんらかの否定的評価を下されたことを悟った。
「てっぎり御屋形撃だれただど思っとりますたが、馬コ狙っで命中させるどは」
「不満そうだな」
信直は信愛の顔を覗き込み、悪戯っぽく笑った。先程まで動顚し、凶暴な一面を露にした信直はどこへやら、すっかり落ち着きを取り戻していた。
「手元狂っで弾コが御屋形の胸ば貫いとっだほうがいがっだ、どでもへりたげだ」
「うんにゃ――うんにゃ――そうでねども――」
信愛は口をもごもご動かし、目玉をぐるぐる回し、やっとのことで言った。「――信直さまが思っだより温厚なのさ驚きやんした」
それを聞いて信直は弾けるように笑いだした。
「信愛!およそ奸臣どはいがのような奴ばへるのだ。我さ父っちゃ殺せど唆す」
「信直さま!」
信愛は怖い顔をしてみせた。
「安心せよ。いがのおがげで我ぁ心定まっだ。晴政を殺し、三戸家棟梁の座盗むこど、もはや一辺の迷いもねえわ。北信愛は南部の奸臣かもすれねども、我さとっでこの上ねえ忠臣。そして我が南部のあるじになればはァ、いがは文句ねえ南部の忠臣だ。そうだっきゃ」
信直の不敵な笑みに常陸はぞっとした。晴政。もはや敬意の欠片もない。南部宗家の棟梁を呼び捨てるのである。信直は三戸と完全に訣別しようとしていた。
そして内心、信直に対する評価を大いに改訂する必要があると感じていた。信直は常陸より一回りも二回りも若い。その彼が常陸より年上で晴政の傍で辣腕を振るってきた北信愛を圧倒しているのである。三戸棟梁への抵抗――いや、よりこの際はっきり言ってしまおう、謀反――をたくらむこの背の低い男は、思っていた以上に感情の起伏が激しく、またそれとは別の次元で底無しの淵のような器の持ち主だった。
常陸は内心、信愛ほど切れる男が、なぜどう見ても勝ち目のない信直についているのだろうかと思っていた。が、今ならその疑問に明確に答えることができる。つまり信愛は得体の知れない信直の器とやらに賭けたのだ。このまま南部の根が腐って死んでゆくよりは、劇薬にも似た謀反の種をあえて選びとり、変革を期したのだ。
常陸はついさっきまで、信直側に引きずられて加わったことに絶望し、すっかり肩を落としていた。だが存外、ひょっとしてひょっとしたら、この喧嘩信直が勝つのではないかという気持ちがむくむく沸き上がっている。進退極まった信直が常陸の屋敷に飛び込んできたのは天啓かもしれない。
「信直どの、屋敷で手当てばさすてけろ」常陸はできるだけ威厳を保ったまま、慈愛がにじみ出るようなほほ笑みを作ろうとした。「その他欲すうもの何でも手配する。この屋敷のものは全て信直どののものど思っでけで構わねえべ」
「かたずけねえ」
信直は丁重な態度で礼を述べた。信直の横に控える信愛の薄笑いだけが、常陸の癇に触った。
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信直が常陸入道の館に篭って晴政と戦った逸話から。
実際は信直が直接撃ったってことはないとは思うんですが、
信直や信愛は信長ルート?で鉄砲を大量に持っていて、
信直自身も鉄砲は得意だったとどこかで聞いた覚えがあったので。
政栄さえ見てなければ信直はこれくらいのことは平気でやるよ!(笑)
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